パンやさん物語(1)
高原のパンやさんは、私の父「品田昌久」が昭和24年に小海駅の裏で多味屋パン店として開業しました。
当時はコッペパンにジャムを塗ったパンが大人気だったそうです。また、学校給食のパンを始めた頃はリヤカーに積んで配達していました。その後、小海線で毎朝清里まで配達して、今の高原のパンやさんの基礎を作ってくれました。
私も小学校の頃から朝6時発の列車に間に合うように1斗缶に詰めたパンを持って駅まで運んだ記憶があります。当時は駅ごとにお店の人がホームまで持ちに来てくれ、大変喜ばれていたようです。
昭和30年代は北相木にも南相木にもたくさんのお店があって私も小学生の頃は親父の運転する三輪車の横に乗って、よく配達につれていってもらいました。
その頃は世の中もゆっくり動いていて、お店に行ってはお茶をごちそうになったり、お菓子をもらって店の前で遊んでいたのを覚えています。
川又にあったお店の前に、魚を飼っている水槽があって、そこの魚を見ているのが好きでした。
牛乳パン、アンバター、イタリー、5ヶ入あんぱん等はその頃から在り、今でも人気の商品です。
当時は大手のパンやさんも、まだ長野県には入って来ていなかったので、田植えの時期とか稲刈りの時等はどこのパン屋さんも大忙しでパン屋にとっては、今の時代から考えても一番良い時代でありました。
昭和32年には国民栄養調査の結果日本人の食物中にはビタミン類が不足していることが指摘され、長野県パン商工組合ではビタミン強化のパンを長野県下全域で「県民パン」として発売し、県下のパン屋さんの結束力も強く大好評でした。